東京大仏 乗蓮寺
GWの中日、母親が墓参りに行きたいということで、付き合いで。場所は東京大仏・乗蓮寺
山門を抜けて、正面が本堂。大仏様は右側。このお寺の建立当初は大仏様はなく、後から作られた。当初は大仏下の入り口が解放されて、大仏様の内側も見られたと思う。
本堂周辺には、大きなハスの鉢が置いてある。水が入った鉢で、金魚とか入っていないので蚊の発生が心配。横の池には大量のニシキゴイがいるので、そちらは問題ない。
ちなみに、ニシキゴイのエサはおみくじとか線香とかを買う売店で買える。子供がいるのなら買ってあげて、ニシキゴイの大騒ぎを見せて楽しむのもまた一興。
墓地は本堂左手の坂の途中に入口がある。冒険家植村直己の墓もその墓地内にあるけれど、遺体は見つかっていないので、供養塔の扱いかもしれない。
山門の表には仁王像、裏手には四天王像がある。色もそれほど褪せていないし、塗り直しとかしているのかね。
乗蓮寺の正門は急な階段を上る。正門下には閻魔堂があって、閻魔と十王の像が祭られている。じつは正面の道を過ぎて横にまわると、少し長い坂があって、そちらのほうが上りやすい。このあたり、赤塚城の名残なのか。"応永年間(1394年-1427年)に了賢無的が山中村(現在の板橋区仲町)にて人々に教えを伝えるために創建したと伝えられている。その後、江戸時代の初期のころまでに板橋区仲宿に移転した。当時は孤雲山慶学院乗蓮寺と称していた。後に慶学山乗蓮寺になった。当寺院は、郷主・板橋信濃守忠康の菩提寺になるなど人々から信仰を得ていた。天正19年(1591年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進され、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となった。また八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われた。その後も長く仲宿の地にあったが首都高速道路の建設と国道17号の拡幅により、昭和48年(1973年)に現在の赤塚の地(赤塚城二の丸跡)に移転した。山号も赤塚山と称した。そして1977年(昭和52年)、かつて東京を襲った関東大震災や東京大空襲など、悲惨な震災や戦災が再び起きないよう願いを込め当寺院の代名詞にもなっている東京大仏が建立された。"乗蓮寺 - Wikipedia
山門を抜けて、正面が本堂。大仏様は右側。このお寺の建立当初は大仏様はなく、後から作られた。当初は大仏下の入り口が解放されて、大仏様の内側も見られたと思う。
本堂周辺には、大きなハスの鉢が置いてある。水が入った鉢で、金魚とか入っていないので蚊の発生が心配。横の池には大量のニシキゴイがいるので、そちらは問題ない。
ちなみに、ニシキゴイのエサはおみくじとか線香とかを買う売店で買える。子供がいるのなら買ってあげて、ニシキゴイの大騒ぎを見せて楽しむのもまた一興。
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